娘時代は横浜に居り、大正十二年の大震災までは貿易商でした。その頃の私はやせていて神経質な、山手にある女学校の窓から港を眺めては、感傷的になるような娘でした。
横浜時代は三度も入院騒ぎをするような弱虫のくせに、気持ちばかり強くて女子大に入学させてくれないというのが原因で、転地するほどの神経衰弱になつたりして、ずいぶん両親に心配かけました。体の弱いのは哲学書ばかり読むからだと、私の不在中にその本を全部売られてしまい泣いたものでした。
生来の好学心はやまず、鹿子木 員信博士の指導下にあるカント哲学研究所のイリス会に入って勉強したり、その頃唯一の女ばりの同人雑誌「たかね」に短編小説を書いたりしていた文学娘で、吉屋信子女史や森田たま女史はその頃の先輩でありました。
御後へ紡いでまいります・・・
※ 原文のままの文字使いを使用しています。
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