西洋果樹の渡来
「りんご」は文久年間に福井の藩主が米國より苗木を輸入したのが創始だ。
今でこそ、「りんご」は「林檎」と一般に書いてゐるが、古い文献を見ると、みんな「苹果」といふ文字を使っている。
『苹果元和産なし、西洋名アツプル、俗にオホリンゴといふ林檎の屬にして寛大に且甜美なり』
これは慶応四年四月、中外新聞第十八號の田中芳男氏の文。
ここでは「苹果」と「林檎」を品別してゐるが、その詮索は別として、この頃既に苹果は案外多く輸入されてゐたものと見える。・・・
成島柳北の航海日乗、明治五年九月十五日の條では、洋種の苹果の味を激賞してゐる。
とにかく、私の調べたところによると、明治五年頃から十年頃にかけては、日本の果樹園は頗る多忙であったものらしく、勧業局試験局や開拓使も、さかんに活躍していゐる。
開拓使官園の縦覧、西洋果樹のつぎ穂の苗木拂下げ、開拓使假学校や農事修学場の新設など枚挙にいとまない程だ。
吹上御苑に開拓使雇米人ケプロン氏が献納した果樹、苹果七十種、梨五十一種、葡萄三十種、李十四種、杏四種、油桃五種、覆盆子三種、黒苺五種、ケースベレ八種などは、記録によると明治五年頃には既に好成績を見せてゐる。開拓使が西洋果樹の輸入に、その栽培に、如何に懸命になつてゐたかが窺はれる。
明治五年十一月十四日、勧業局試験局の西洋果樹つぎ穂の苗木付け拂下げ告示品目の中には、葡萄、苹果、櫻桃、李、巴且杏、杏、梨、桃、無花果、榲桲、グスベレ、草苺などが出てゐる。
さまざまな西洋果樹は、かくて全國的に広まつて行つたのだ。
日本に於ける西洋果樹の根源は、おそらくこの時代に出来たものではあるまいか。
”さくさくと 林檎をはめば 青森の 霧の港も とほくしのばゆ”
秋の果樹園より
朝 ” 見てゐれど、ゐれど あかき林檎の 艶ややけさ”
御後へ紡いでまいります・・・
※ 原文のままの文字使いを使用しています。
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