昭和六年十二月二日(土)犬養邸には、政友会の党員が大勢きてをり、各新聞社が、直電電話線を、広い庭に掛けめぐらしてゐました。邸内は人ばかりが、ただ動きまはるだけの、あわただしいことでした。
西園寺公が、参内されましても、なかなか宮中からの「お召の電話」がありません。期待の中にも、一抹の不安に人々はただうろうろするばかりの、おちつかない事でした。
西園寺公邸に招かれてゆかれました犬養総裁が、当院や新聞記者の人々の渦をかき分けるようにして、帰邸されました。
無言で二階のお居間に上がってゆかれますお顔を見上げまして、私は大丈夫といふ気がしました。
夕方いそいで自宅にかへり、清和会の会服(無地)に新調の塩瀬の丸帯(鳳凰の縫取)、それに犬養先生よりいただきました「龍」の帯留めをしめて、犬養邸にゆきますと、「単独内閣だ」「いや協力内閣だ」と、渦のような男たちの声でした。
「宮中からのお召の電話」を取次ぎたいと、二,三人の若い代議士が電話の前で互にゆずらないで、頑張っているのが、おかしかったのです。午後十時三十分、宮中からのお召の電話のベルが、特別に高く鳴りひびきました。
万歳々々の声の渦の中を、参内されました。そして大命を拝受されて、帰邸されましたのを、お迎へしましたとき、犬養総裁のきびしくきんちょうされましたお顔をお見上げして私は、喜びにゆるんでゐました自分の顔が、ピリッとひきしまるようでした。

御後へ紡いでまいります・・・

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