~コラムより抜粋~

手拭ゆかた

露 地に持ち出す涼台では、よく手拭ゆかたをきてゐた。もらい手拭をつなぎ合わせた浴衣で榮屋・酒屋・炭屋など、屋号の入った野暮な手拭の繋ぎ合わせだから、 手拭ゆかたは、貧乏くさいと、きらはれたものであった。その手拭ゆかたが、芸妓や役者の手拭つなぎとなると、ぜいたくで高価な浴衣と、羨望の的になるか ら、おかしなことであった。
38年に米寿で永眠した母は、80すぎてから、当代一流の役者の手拭ばかりで、2枚もゆかたを作った。それも老眼鏡をかけて自分で縫った。

やまとなでしこ
縫ふ母のそばには、いつも針に糸を通す者が付き添ってゐた。縫ひはじめるまでの何日間、母は役者衆の手拭を広げては袖は誰れ、背中は誰れと、役者の名前を見ては、きめるまでの楽しそうなこと。
歌右ヱ門(5代目)と福助を両袖にときめても、次の日になると、梅幸(6代目)と羽左ヱ門(15代目)の手拭を両袖にしたい。直次郎がと、云ひながら「春の寒さにふる由雪の・・・」と好きな清元を唄ひ出したりする。
寝まき用の手拭ゆかたが2枚、縫ひ上がるまでの、なんとも楽しそうな母であった。そしてその役者たちの役柄や狂言を思い出すままに、母は娘の頃から6代目 沢村宗十郎が好きで、宗十郎の聲色まできかせた。丸髷の櫛や笄には、宗十郎の紋どころ「水に千鳥」を蒔絵にした金拍にも彫らしてあった。
水に千鳥を染めさせた長襦袢には、水と千鳥を左右に分けて刺繍させてあった。帯留の金具は水を金に千鳥を銀でつくらせてあり、水に千鳥を織り出したさげ袋は重鎮であった。
役者の手拭を自分で縫ひ合わせて作った手拭ゆかたに重ねて着る黄八丈は、秋田からとりよせた。
色白で眉のはっきりした母は、乳白の髪を、断髪にした。

好きな役者の手拭ゆかたを着、筑前博多の伊達帯をして、安らかに御棺に納められた。
一枚残った手拭ゆかたは、母の仲よしの老婦人に形見として差し上げた。


  御後へ紡いでまいります・・・

※  原文のままの文字使いを使用しています。