病臥中の逓信参与官坂井大輔氏(総裁元秘書)が重態といふことでした。
首相は、政務多忙中をわざわざ紀尾井町の坂井家にういかれましたが、予定の時間を過ぎましても、帰邸なさいませんでした。
その頃は特に不穏の空気がただよってをり、「犬養暗殺」の報が流布されてをりましたので、首相の周辺の警備はひそかに、きびしくなされてゐましたことは、私も知ってをりました。
それだけに、首相夫人の不安定なご様子には、私までおちつけませんでした。
「かれこれ一時間近くもお帰りがおそいのは、予定外にどこぞへおゆきになることでも出来たのかしら。聞合わせておくれ」。
仲働きのお春さんに云はれました。さっそく近藤秘書官がきまして、「予定外のことは何もございません。御帰邸の報告がないので、警視庁でも心配いたしまして、方々へ問い合せをしてをると申します。報告がまいりしだい申し上げます」。
「いやな噂を聞くときですからネ」とつぶやかれた夫人は、おちつかなく立ち上がられると、となりの食堂にゆかれますので、私もついてゆきました。

椅子にかけられるでもなく、無言で向き合って立ってをりました、そのとき、横門紀尾井町の坂井氏を見舞はれた帰途、急に思いつかれて、四谷南町の私邸に立ちよられたといふことでした。
私邸の庭で愛玩のバラの花を眺めたり、二階の自室にゆかれなさいましたと、護衛の神埼刑事が夫人に説明してをりました。

やまとなでしこ

 

 

御後へ紡いでまいります・・・

※ 原文のままの文字使いを使用しています。