「なぜ、四谷へ行ったときすぐ、デンワをかけないのです。警視庁で大騒ぎしたんです」。
夫人に云はれて宮崎刑事は、ただもう恐縮するばかりでした。
夫人は突然私邸にゆかれたのは、何の御用かと、不審に思ってをられた御様子でした。
首相は食堂でお茶を飲まれながら、「私邸の庭は、草でも取らせてきれいにしてをく方がよい」。
「そりゃ、草ぐらい取らせてをきますが、当分私邸にはお帰りにならぬのでしょうけれど」。
夫人は留守中の私邸を庭を、特にきれいにする必要はなかろうといふお顔をされました。
「いや・・・いつ帰ってもいいように、私邸はきれいにしてをくものだ」とつぶやかれました。
私には首相のお言葉が胸にしみ通るように印象深く忘れられませんでした。

食卓の上には私邸からお持ちかへりの、沢山の「香」が列べられました。
「どうしてまた、こんなに沢山のお香を私邸からお持ちかへりになったのです」。
夫人は厭な顔をなされましたが、首相は黙って「香」をあれこれ見てをられました。
日頃から「香」を嗜まれます首相は、官邸に移られます時にも、いろいろ持ってこられましたが、私邸に立ちよられた用事は愛玩の「香」を取りに、わざわざゆかれたと思ひました。「かみさんたちにも、少しは「香」を嗜むがいい、皆にも分けてやる」と、ポツンと申されました。
夫人たちのことを、いつも平気で「かみさんたち」と首相から云はれますのが、夫人にはそれが気になるらしく、そのときも、「お口がわるい」と苦笑されてをられました。

愛玩の香合に納められましたお好みの香が、はからずも、5月15日の夜、逝去されました首相の枕辺に供えられたのであります。

やまとなでしこ

 

御後へ紡いでまいります・・・

※ 原文のままの文字使いを使用しています。