昭和七年五月十六日午前二時すぎ、首相公邸を若宮貞夫夫人と共に辞去しました。
真夜中の街は、さぞうす暗いもののように思ってをりました私は、街頭のあかるさにおどろきながら車で帰宅いたしました。

張りつめていたものが、くづれていくような、力のぬけたくたくたな、どうにもならない心身の疲労は私をよく眠らせなかったのでした。朝八時半には、母と私は半喪服(無地の着物に黒の帯)で、公邸に弔門いたしました。


そして清和会の幹事諸姉を召集、弔問の夫人たちの接待をしてもらいました。御遺骸の安置されてをりますお居間に、千代子未亡人、芳沢夫人と三人でをりますところへ、「荒木、大角の奥様がぜひご焼香させていただきたいと申されますが」と取り次いできました。


未亡人はサアと顔色を変へられて、「私は会いません。塩原さんあなたが」と席を立たれました。「陸海軍が殺してをきながら、よくも悔みにこられたものネ、顔みるのも厭ですよ」。


芳沢夫人はきびしい顔をされて、未亡人のお手を引いて出てゆかれました。
「あの、どういたしましょうか」と取次の人はオロオロしていました。
「こちらへお通しして下さい」。


私はおだやかに云ひましたが、重苦しい気持ちでした。喪服姿の荒木、大角の両夫人は、しとやかに入ってこられました。そして、「荒木でございます」「大角でございます」。両手を揃へて深く頭を下げられました。「あの、奥様はどのようにか、申し上げようもございません。謹んでお悔やみ申し上げます」。 小声ながら、はっきりと云はれました。両夫人はしばらく合掌されてから、お焼香なさいました

 

御後へ紡いでまいります・・・

※ 原文のままの文字使いを使用しています。