「早くお入りなさい」。「でも入れてくれないんです」。「この方は首相夫人の秘書ですから、早く入れて下さい」。 土屋君が兵士たちに云いましたので、黒塗り木目の杉戸のところに、鳩山夫人と太田正孝代議士が立ってをられました。「早くお居間に行って、私はここに」と鳩山夫人は口早に云はれました。

夢中で畳廊下を首相の居間に飛び込みました。五、六人の医師たちが枕辺をとりまき、看護婦の姿も目に入りました。千代子夫人は寝台脇の椅子にかけられて、首相を見守ってをられました。寝台の裾の方に、砂田夫人が膝まづいて、お布団の中の足をさすってをられました。

横あいから、ゴム袋の湯タンポが私に渡されましたので、お布団の中へソッとお入れしたとき、首相は沓下を履かれたままで、右足は冷え切ってをられました。
首相は左を下に、目を閉じられたお顔を、こちらに向けてをられました。苦痛は訴へられませんで、ごきどき「水」とかすかに云はれるだけでありました。おテルさんは、口中にたまる血をガーゼで拭き取っては、洗面器に入れてゐましたが、私にたまったガーゼを捨てて下さいと云はれました。
一間幅の畳廊下の左右にズラリと、不安気な顔に、目を異様に光らせた夫人たちが、血染のガーゼを見ますと、アーと叫び立ち上がって私をとりまき、口々に首相の容態を聞きます。が私は無言で首を左右に振るだけでした。
空の洗面器を持って、居間に戻りましたが、少しづつでも血染めのガーゼはたまります。おテルさんからまた捨てて下さいと、洗面器を渡されましたが、夫人たちに見せたくありませんでした。                                                                              そこで庭に面した次室の障子をあけて廊下の隅にありました大きなアケビの屑入れに、新聞紙を厚く敷き血染のガーゼを捨てることにしました。

 

御後へ紡いでまいります・・・

※ 原文のままの文字使いを使用しています。