生来の好学心はやまず、鹿子木 員信博士の指導下にあるカント哲学研究所のイリス会に入って勉強したり、その頃唯一の女ばりの同人雑誌「たかね」に短編小説を書いたりしていた文学娘で、吉屋信子女史や森田たま女史はその頃の先輩でありました。

文学ばかりでなくその頃の娘らしく活花は池坊を岡田広山先生の品川のお宅まで横浜から五年余り通い、茶道は気持ちに合つてとても好きでしたから六年ほど修業して裏千家々元、円能斎宗匠より”宗珠”の名を許されました。
形式よりもその精神をみつちり仕込まれたことは、所謂肚を作るといいますか、今になってありがたかつたと思います。

花に茶にその稽古通いも母の好みで、娘らしく高島田や桃色や緋鹿子をかけた結綿、おしどり髷などに結い、衣裳道楽の両親のおかげでいつも綺麗に着飾られて もらいました。結綿髪の娘が哲学を云々するなど変に思うからでしょうが、その頃はちつとも不自然ではありませんでした。

やまとなでしこ

 
十何年かぶりで吉屋信子女史に逢った時「綺麗な友禅縮緬の長い袂の貴女が、婦人参政権運動の闘士とは、大した転向ぶりね」と冷やかされたものです。
私の娘時代は、物質的には恵まれすぎた生活の中にあつて、ロシア文学や河口博士の第二貧乏物語などの影響からか、贅沢な生活に満足しきれない、何かを求める気持ちにかりたてられていたと思います。

御後へ紡いでまいります・・・

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