やまとなでしこ

 

私が赤いテガラの丸髷に結ったと申しても、本当にされないでしようけれども、太神宮の神前挙式から震災までは築地河岸にあつた精養軒で披露した結婚生活も、相互の家庭や性格の相違その他の事情から二年あまりで解消の幕をさげてしまいました。

 

温室育ちの私が、それによつて世の中というものがわかりかけると、社会的にも無能力者としての女の地位について大きな疑問を持ちました。

 

 

その頃(大正13年12月13日)当代知名の各女史総動員で夫人参政獲得期成同盟会(後に婦選獲得同盟と改名)という有力な会が発会され、私も入会して市川房枝氏、山高しげり氏等々と共に運動に打ち込みました。

大正15年には議会運動部の委員長という重責を荷い、それから満5ケ 年間は、参政権運動のために、開会中の衆議院の面会室に傍聴席に3ケ月間は、雪の日も風の日も私は通いました。「労働者と女性の解放は一つである、日本女 性三千万のために闘う」という強い信念に燃えていたからです。

御後へ紡いでまいります・・・

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